雑記

今回は、コミュ障は同盟を結べるか検討したいと思う。このテーマについては、自分自身コミュ障なので何度か考えたことがあるテーマでもある。

私自身の考えとしては、「無理」と言える。コミュ障同士は結びつかない、相入れないのだ。話を引き出す、非コミュ障がいてこそ成立するのだ。コミュ障同士だと、互いに沈黙を解かず、終わるであろう。一口にコミュ障といっても、趣味嗜好も違うし、思想思考も異なるので、同じコミュ障でも人間的に合うかはわからないのが本当のところである。

現に今まで比較的親しくなった方々は非コミュ障であったのが何よりの証明である。私のようにコミュ障の沼に入り込んだ人間と親しくなることはあまりない。しかも、難儀なことに私は人の好き嫌いがはっきりとしているので、一度嫌い・苦手と思った人間にはなるべく近づかないようにしている。正直、絡みたくないのだ。向こうだって、コミュ障で何を考えているかよくわからない人間とは親しくなりたくないだろうから互いにwin-winの関係である。しかも、猜疑心が比較的強いので、人を簡単に信用しない。所詮、赤の他人

血の繋がりはなく、いつ足元をすくわれるかわかったものじゃないと一種の自衛心が働くのだ。本筋から離れた気がするが、コミュ障とコミュ障、同盟は結べない。仮に結べたとしても利害が一致しただけの浅はかな同盟と言えよう。いつ、同盟が破棄されるかわかったものではない。

互助は大事だが、真の友情を欲するなら、コミュ障抜きにして同じ趣味を持つ人なり、自分と共通点を持つ人を見つけ出し、仲良くすべきだ。コミュ障も確かに共通点ではあるが、それだけでは親しみに持っていきづらい。趣味が同じならば、話も弾むし、話をしていて楽しくなる。コミュ障同盟はいわば、砂上の楼閣で、幻想に過ぎない。学生時代、コミュ障同士で何かしらの互助組織、同盟は結べないかと考えたが、すぐに机上の空論だと思い知り、同じ趣味を持つ仲間などを探して仲良くするように心がけた。無趣味のコミュ障はどう立ち振る舞いをするのか、それは謎である。孤立したコミュ障は心の拠り所がなく、外界の関係を絶って引き込もってしまったり、カルト・新興宗教の方々に狙われやすいので、要注意である。

コミュ障同士でも、独自のカーストがあるので要注意である。迂闊に親しみを持つと痛い目を見るので気をつける。

よくある、サブカルチャーでの繋がりも良し悪しであるが、長くなるので控える。

同族嫌悪という言葉もある通り、コミュ障はコミュ障を嫌っている、忌避している。こいつと同じ目で見られたくないという思いが少なからずある。それでは、同盟・互助なんて到底無理である。ああ、哀れなり。脱コミュ障を達成した人も中に入るみたいだが、生粋の非コミュ障には負ける。変におちゃらけて、周りの輪を乱す、スベる。見ていて痛々しい限りであるが、聞き耳はおそらく持たないであろう。彼は脱コミュ障をしたのではない、自分を偽って強がっているだけだ、同じコミュ障だからわかる独特の雰囲気、空気感、トークスキル、異性に対する立ち回り。全て、コミュ障の名残が拭いきれていないのが、コミュ障から見てなんとなくわかる。

そういう輩は、非コミュ障と連んで、コミュ障を馬鹿にしたり、見下したりするが、そういう輩は元はコミュ障の出だから、加減を知らない。見兼ねた周りがやんわり指摘するが、元コミュ障だから、相手の遠回しの指摘に気付かず、最終的に振る舞いを改めず、孤立するという悲惨な形で幕切れになる。脱コミュ障も辛いのだ。生まれついたコミュ障は中々拭いきれない。それならば、コミュ障を受け入れるべきだ。無理に変えなくても、生きやすさを見つけ出せるはず。まあ、各々のやり方・考え方にケチをつけたり、否定することはしないでおこう。ただ、同族だからと信じて疑わず、近づき傷つかないためにも、事前に見極めも大事だ。容姿は一要素になるが、過信はするな。同族の容姿でも、根明はいる。気を抜くな、油断するな

これが言いたかったのである。勿論、コミュ障同士の同盟が結ばれているところもあると思うので、今回のは私個人の一意見・一考えとして捉えてもらいたい。

駄文・長文を長々と書き連ねたが、ご容赦願いたい。非常に読み難い文章だと思う。同じ、コミュ障の方々に読んで、意見を聞いて見たいと思う。この考えに意見・反論・他の考えがあると思う方々はコメント下されば良い。是非、拝見したいと思う。最後に上記の記述は私個人の考えで、誰かを批判・非難・否定・中傷を目的とした記述ではないことをここで改めて言いたい。非常に読み難い文章で、誠に申し訳ございません。


乱文失礼致しました。